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剣門

2012-03-12    admin    Browsed:2785

 

虞山の剣門は剣と関係がある。『呉越春秋』にはこういう話がある。呉国に干将という、有名な剣の鋳造師がいた。彼は呉王の闔閭に命じられ、剣を鋳造しようとした。干将は五山の鉄の魂を取って、六合の優れた鉱石を炉に入れ、また天と地の利を待って、「陰陽の光が同じになって、よろずの神様が来て喜び、天の気が降り、地の気が上昇する時」に炉に火をつけて、いろいろな困難を乗り越えて、陰陽という、二つの剣を鋳造した。陽の剣に自分の名前の「干将」を付け、陰の剣に妻の名前「莫邪」をつけた。干将は、陰の剣「莫邪」を呉王に捧げ、陽の剣「干将」を隠した。しかし、それがばれて、闔閭は怒り狂って、干将を剣で切った。闔閭が亡くなったあと、その子の夫差が跡継ぎをした。夫差は、干将が自分の子に、「雄剣の隠れるところ、松の生えた石の上」と話したのを聞き、松の生えた石の上で雄の剣を探した。そのうちに、虞山の錦峰の頂きに来た。そのあたりは、岸壁が切り立って、松が石の上に生えている。まさに、「松の生えた石の上」ではないか。夫差は錦峰に来たら、腰にかけている莫邪剣が鞘の中で微かに響いているのを聞こえた。それは明らかに二本の剣が互いに呼び合っているはずで、「干将」はこのあたりにあるのだと思い、兵士たちに徹底的に探させた。何百人の兵士たちは、三日三晩探し回ったが、雄剣の陰も見えなかった。夫差はかんかん怒り、莫邪剣を抜いて崖っぷちを斬った。莫邪剣には、神の力が隠れているから、突然ごろごろと来て稲妻が光った。そして、錦峰はまっぷたつになった。それは、剣門の由来だそうである。
詩曰く
    「夫差極めて英雄であり、剣を試して虞山の頂き。刃を斬ってれば、石の髄は流れて水のごとし」
      もちろん、剣で岩を切るなどは、ただの伝説である。
    『蔵海寺志』に、次のように記載している。「誌にいう剣門は、先人が石を切って通じる道なり。資金を寄付する方は万人超え、亦一時の偉業なり。その後、一つの閣をまた、作った」それは、銭籍という有識者が剣門という景色を作るのに呼びかけたことを言う。銭籍は、明代の常熟人である。位は、「御史」までなり、退職後古里へ帰り、人々に募金を呼びかけ、剣門あたりの崖を整備し、剣閣を建てた。剣閣ができると、銭籍は自ら対連を書いた。
   「果てしない風月は、あざ笑いを相手になり、主のある川と山は、裁きによってできあがった物である」と。
    その対連は、剣門を作った銭籍の得意な気持ちを表していたが、「反逆の心あり」と曲解された。川と山の主は当然、皇帝であるが、皇帝の川と山は、他人に裁くことができようか。それで、銭籍はよいことをして監獄に入れられ、弁解もできず、無実の罪を着せられていた。
    現存の剣閣にかけた板には、銭籍の書いたほかの対連がある。
  「剣で絶壁を開き、ギザギザの道は、さらに険しくなる。重なった湖が鏡のようで、洞庭彭蠡と奇を競う」
閣の中に、また、常熟籍の大学者銭仲聯の書いた対連がある。
  「蜀の閣と雄を称し、仏は陶家の輪を捨てて、剣の来たから峰の一角を分けてもらった。尚湖は絶代、人は水の精の域にあり、鏡の中は月夜の緑髪を照らし出す」
   この対連は、剣門を四川の剣閣と比較して、剣門は、ある人が仏の方術で四川から分けてもらった奇形であると言う。まさに奇想天外で、すばらしい発想であろう。