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虞山と尚湖の民間伝説、姜太公、魚を釣る

2012-03-12    admin    Browsed:2154


    尚湖は別名、西湖、山前湖である。では、尚湖のという名前はどうやってできたのであろうか。
 
    伝説によれば、それは周朝の宰相、姜尚がこの湖の浜に隠遁したことで付けられた名だそうである。
 
    周朝の末尾、紂王が徳を失し、淫らで度のない生活をし、妃を廃し、妲己を立て、忠実の大臣を監獄に入れ、小人を使い、太子を左遷し、女官を毒蛇や毒虫に食わせ、忠告してくれる大臣を火の上に炙る。朝廷の文武は口をつぐんで、人々は離反しようと思い、百姓は国から逃げようとしている。
 
    庶民の中で一人、姜という名字で望という名前の人はいる。別名は、呂尚で、字は、「子牙」という。姜太公、あるいは、太公望と尊ばれている。年は七十を過ぎたにもかかわらず、天地を知る才能があり、戦をうかく勝ち抜く腕を持ち合わせている。ただ、辨えのいい君主に恵まれておらず、庶民の中で身を隠れている。紂王の暴政を我慢できず、朝歌の東海に逃げ、海隅山(今の虞山)に隠遁生活を送っている。閑の時に、海隅山の麓の湖で魚釣りをする。姜太公の魚釣りは独特である。他の人々は、曲がった針に餌を付けて魚釣りをするが、姜太公は、細い竹に芦の茎を付けて釣る。それでも、よく大きな魚が釣れた。統治の漁民や農夫はよく彼が魚釣りするのを見に行く。彼もこれを楽しみにして、百姓と四方山の話をしたり、栽培や農作の技術を伝えたり、また国を治める理、戦争の勝ち方、ないしは人の基本道徳を教えたりする。彼はよく占いをし、星を見ては病気の治療をしたり人の運命を占ったりし、あたりが極めていい。占いをしてもお金をもらわず、病気を治療しても物をもらわず、釣った魚を人々にあげる。そのうち、百姓たちは礼儀を知るようになり、みんなは、姜太公のことを「生きている神様」と称している。
 
    そのことは、百姓に囃され、無錫の梅村の仲雍のところに話は行った。泰伯と仲雍は、元々、我が国の西部の周族の首領、古公亶父の長男と次男である。父親が王位を弟の季歴に伝えようという意を悟って、国を離れて、呉に来たのである。泰伯は無錫に住み、仲雍は海隅山に澄んでいた。後ほど、泰伯は呉国の首領になった。泰伯がなくなった後、仲雍は無錫へ行き、跡継ぎをしていた。そのときに、仲雍はすでに古希になっていた。
 
    仲雍、奇人の話を聞いて、高齢を顧みず、息子と数人の随行員を連れて、賢者を訪ねに来た。海隅山の下にある西湖に着くと、確かに一人、笠を被り、身のを羽織って、童顔白髪の、飄々たる方がいた。
 
    仲雍はすぐ礼をいい、「釣りをなさっているのは太公か」と聞いた。
 
    姜太公は、その来客の人数や衣装から、大体どんな者か察しが付いているが、「さようでござる。御大尽様は?」とわざわざとぼけて聞いた。
 
    「ワシは、岐洲の人士で、古公亶父の息子の仲雍でござる」
 
    姜太公はまた一礼をして、「お名前はかつてから伺っている。泰伯と仲雍は国を譲って位を避き、その美名は遠くに知られている。ワシは、朝歌城の一介の百姓に過ぎない。紂王の暴虐をさけるために隠遁したわけであるが、東海の畔でお目にかかるとは、光栄極まりでござる」といい、釣り竿を納め、漁民たちとさようならの挨拶をして、仲雍を隠居の石室に連れて行き、大童にお茶を出させ、二人で膝を交えて話していた。話は、国を治める道になったとき、姜太公は、「一、天を尊ぶ。二、民を愛する。三、賢者を親しくする。それは、民を豊かにし、国を豊かにする道である」と語った。
 
    軍を治める道は、「軍令山の如く、民を愛するは我が子の如く」と言った。
 
    二人は、一見旧の如くで、つうかあの仲になり、仲雍が姜太公を「棟梁の材」と認め、「今、紂王の失政で、天下の万民は、水火の中に陥った如く」と言った。
 
    太公は、「我が聞くに、西伯の候姫、昌は広く仁政を行い、百姓を大切にして、耕者に田を与え、刑罰を使わず、土を画して牢にし,木を刻んで吏とす。百姓に男の子が結婚する時に、女の子が嫁に行ける時に、公銭で結婚させる。夫あり子なし、あるいは、幼くて父を失った者は、金や物を与えて救済する。おかげで岐洲の百姓は豊かで、歌や踊りの社会になっている」と言った。
 
    仲雍は「紂王は毎日暴虐を行い、民が生活できぬ。姫昌は、百姓を救助せんとす。ただし、補佐してもらいたい人が必要。先生には、国を治める道を知り、勝ち抜く方法もあり、そこへ行って補佐してあげていただけないか」と言った。
 
    太公は、「おっしゃったどおりだ。天象を見ると、王者は必ず姫昌なり。西岐へこれから行く」と言った。
 
    仲雍と太公と話に花を咲かせ、あっという間に太陽は西に傾き、二人はお礼をして別れを告げた。
 
    それから一ヶ月も経たないうち、姜太公は海隅の百姓と告別して、海隅山を離れ、遠路遙々と西岐にたどり着き、渭水の畔で西伯候と会い、彼の大臣になった。その後、姜太公は、西伯候を補佐して仁政を行い、紂王を討伐し、天下を治め、周朝を打ち立てた開国の元勲になったのである。
 
    のちほど、人々は、その開国の元勲を記念するために、姜太公が魚釣りをした西湖を「尚湖」と名付けた。